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良品を由として消化する
振りまわされない克己心
使い古されたブランド力

伝染するブランドという自己イメージ
マークを集積して見えてくる
カテゴライズされたい彼の本性

カテゴリーを集めつづける現代のレッテルだけを切り抜いた時、浮かび上がるブランドという非安心感

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どう言おうと、どうしようと、始められない。結局のところ、ファッションって何なのだろう。
格好がいいとか、悪いとか、どの主観から伝わったのかよくわからない話は一旦止めて、
僕が集めようとしたものについて考えてみた。

 

まっ先に思いつくのは言葉。みんな十分なのに、それよりもっと言葉を集めようとする。
ほとんどが、多分、自分に関係すると思うものに執着する。例えば、誰でも褒められたい。

次に、服かシューズ。本当は自分にまったく関わりのない価値だけれど、
身につけることで何かが変ろうとする気がしてくる。

ポロシャツの胸についているあのシンボル・ロゴマーク。そうマークの話し。
子供の頃、どれがどうしようとか言いだすもっと前から、僕たちはマーク集めに夢中になっていた。

それは今も変らない愛情なのか?

サッカーや野球やアニメーションのキャラクターだったものが、
どこかの境界を越えた時、ブランドと呼ばれるものに変っていった。
子供にとって、アスリートとヒーローがブランドであることに疑うところを見つけることは出来なさそうに思えるけれど、
大人にとってのブランドはどうだろうか。そんな言葉の価値は変っていないのだろう。

 

格好をつけるためのロゴマーク。
何かのステイタスを積み立てるための応募シールを集めてまわるような無駄。無駄なものは嫌われる。

 

北米を中心に、ミレニアルスという大体25,6歳から30代はじめくらいの年代の、
文化的ローカロリーな人生を暮らす人々がいる。
家や自動車はシェアリング、服や靴にもブランド品にもほどほどの興味はなく、
バーガーばっかりではない摂生した健康的な食事をとる。無駄は嫌われる世界なのだ。

 

それでも僕は個人的に無駄は嫌いではない。ただし、自分で選択した無駄ならばの条件つき。

偏屈な意見をしよう。ブランド主義なのか、合理的な理性なのか。

ブランドロゴを頼るという程、背筋がない訳ではないし、それでも一応、というよりも、
かと言って服にまったく金をかけたくないという理由もない。そう自分では胸を張りたくなることも確かだ。
ファストファッションに対しては嫌悪感すらあると言える。
とにかく、万人受けするような物事に、あまり自分の身を曝したくはないとは思う。

 

一体何が正しく、何が間違っているのかを言い出しづらい。わからないことだらけで胸焼けしそうなことはわかる。
そうではないと言い切ることができるだろうか?
たくさんのものが溢れている都会生活の真っ只中にあって、
どちらか二択の答え、もしそれが存在するのであれば、そこに辿りつけただけで中々の中庸と評価できる。
何かに属していると思われたいと願うような大人にとっては、ブランド力こそ最後のカテゴリーに見えるのだろう。

 

consumerism2

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昔、裸になったら何番かのナンバーの香水を身につける女優がいたらしい。本当かどうかは、これもほとんどわからない。
だけれど、多分あまい香りがしたのだろう。皮を剥いで剥いで、剥いで、
最後、裸になっても、何かを纏っているということは、なんだかすごいことにも思えてくる。
社会的なものをすべて放り投げた時、もう何の効力も見出せないはずなのに。
そんな状況下においてさえ、無意識と意識の間で何かを所有したいのは大人の特別な条件なのか、
それとも、何も感じないからこそ、そのナンバーに身を託すのだろうか。
もしそうだとしたら、やっぱりすごい安心感になる。

 

そうか、安心感。僕に見えていなかった価値なのだ。僕は安心して何かを買い入れたくなかった。
期待しないのは精神の消費だからだ。誰かの価値観を土足で踏み込むような先鋭。
そして振り向かない。つまり、それがモード。

 

それなのに、街中が既視感で埋め尽くされている。そんな意味の格好はよくない。
モードが精神を貫通させたのは意思だったのだと、今わかる。それでも、今はもう不必要の。
例えるなら、バッテリーコード、いろいろなものが内臓式に据え変えられているのに、
人間とコードだけは絡まったままだ。
インテリジェンスみたいに精神もポーンとひとつスイッチを押し込むだけで送信でたら良い。
とにかく、そんな気分もわるくない。

つまり、これも安心感なのだろうか?

 

かっこうが良いとか、何とかの領域に自分の姿を投影させるべく飛び込む勢いが、
ブランドロゴに与えられたエネルギーなのだとすると、
それはそこへの門としての適度な機能を振り分けていたことになろう。
門の内側に入り込んではじめて識ることが、新しい刺激と欲求であったならそれは良い経験だし、
現実としては、その反対に絶望につながる無関心へとフェードアウトするお飾りも少なくなかった。

 

今日、僕がどうしていいのかわからないまま振られるのは、
例えば、マークだけが神格化されて、すりかえられた頭が自分と同じか、それより下の世界しかみていないことにある。

これがとてつもない既視感を呼び起こす。格好がいいのは認めるけれど…わかった。それはもう見たんだ。
識っていることを見せびらかされるほど、無駄なことはない。やっぱり、無駄が嫌いなのだろうか。

 

consumerism2

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 http://www.morlinghaus.com

 

何を着たらいいのかわからない、迷子になったあの日の少年たち。

とはいえ、神格化された精神が目を覚ます時、それこそ今なのか。
くぐってきた門に、上手に妥協点を見出すことなど放っておいて良い。

 

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http://www.morlinghaus.com 

 

その先のユートピアへつながることを選択する大人になっていたいと願っていた。