北欧デザインの向こう側
ヴィンテージチェア
文化度の飽和と飢餓
磨り減る現代都市のライフサイクル。
インスピレーションの源泉を求めて
ファッションの意味を守る。
他人の価値を持ち込む部屋から自分の意思を持ち出す人へHelinox×Monrõのプリミティブな感光
部屋に帰ってきたらはじめにすることと言ったら何だろう。あるいは、何を期待するか。
ビール缶のタブから開放する。テレビに光を吹き込む。FMラジオの周波数を拾うことや、
プランツに水をやって、愛犬と散歩する。家族と団欒。
SNSやメールといったデジタルっぽさよりも
もっと直感で人に触れるようなことをしようとするのではないだろうか。
昔から行ってきた通りに、飛躍しないで。きっとそれが楽しみと言えることなのかもしれないと思う。
帰ってきてからの30分間のハピネスと同じように、自分の部屋という空間がとてもおもしろい。
僕たちのライフスタイルの様に、「自分の部屋」はそれぞれ千差万別に繰り広げられる。
自分以上に自分の姿を現しだすこの場所を極地的宇宙空間と呼びたい。
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そして、この僕たちのパーソナルというギャラクティコの中心となる太陽こそが椅子である。
ヴィンテージ、北欧デザイナー、無垢材、ミッドセンチュリーのものであったり、
古道具屋で掘り出した民芸古家具、IKEAかもしれない。
子供の頃から当たり前にあったテーブルセットを引き継ぐこともあるだろう。
椅子という道具は一日の中で最も近くにあるものである。
ダイニングの椅子も、仕事デスクの椅子も、自動車の運転席も、ごく自然に触れている。
一日中立ち仕事だった時、リビングの隅に置きっぱなしの埃だらけの椅子が無性にほしくなる。
例外は外で思いっきり走ってへたり込んだ時と、呑みこんだ時。
この地面ほどの座り心地、寝心地はそうそう見つからない。
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日々を暮す基となる空間にこそ、僕たちの息吹が宿るものである。
誰もがその場所に気に入ったものを持ち込みたくなるのはごく当然のことであって、
そうしてやって来た思い入れの品々は僕たちのライフスタイルを彩ってくれている。
人々が気に入ったものを見つけて、
しかもそれを使い続けるということが、実は奇跡的なことだと感じることがある。
簡単に情報を集めることができて、多くの人々が私生活を豊かに表現できる時代は、
その反面、本当のパーソナルな部分を見つめることはとても難しい。
幸せなことは、ヤコブセンもウェグナーもアルヴァ・アアルトもブロイヤーも、イージーに触れることができる。
ほんの10年前ではほとんど興味の向かなかった分野に、
ある朝スマートフォンを開けば、1・2・3アクションで出会える可能性すら大いにあり得る。
そしてその良き反面、僕たちはあらゆるプロセスを飛び越えて、
いきなりここに辿りついている様な気もしている。
優秀で質の高い、価値を与えられたマスターピースのデザインを抱え込んでいても、
手に入れた途端に放り出してしまうのは、
ある種の飽和と飢餓の感じる精神のアンバランスさなのではないだろうか。
良くも悪くも他人から与えられた価値は、それだけのものでしかあり得ないということなのかもしれない。
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ほんとうにその空間が好きなのかどうなのかは、僕にも誰にもわかりづらいことではあるが、
記憶のキャパシティーと同じ調子で、かつて抱えていた物々の内から、
いつの日かほんとうに好きだったものをつまみあげることができるようになると思っている。
こうやって「自分の部屋」に持ち込んだ様々な椅子に、
どのように自分の価値を植えつけていくのかがこれからの意思によるものになることは明らかである。
街を歩いていると、ちょっとした看板やポスターに時々、ふと降りてくるようにすっと気に入ってしまうものがある。
デザイン化の進んだ現代社会にとってのカラーは、街々のいたるところに落ち込んでいる。
古い商店に掲げられた太いゴシック体に何とかロマンスを嗅ぎ分けることもできるだろう。
当たりまえに溶け込んでいるこうしたデザインの上質は、
俄かに僕たちの生活の中に自然に入り込んでいる共同空間として見ることができる。
デザイナーは時代や、流れを視てデザインを感じるものである。
この意味でグラフィックは僕たちの一部を担う表現でもあり、
また僕たち自身がこの街のグラフィックの一部でもあるということ。
これまで、お気に入りを“持ち込んだ”僕たちは、
ソーシャルのつながりの線上で、今度はそれを外へ持ち出すこともできるのではないだろうか?
そこで、〈Helinox〉というアウトドアメーカーを一度は見たり聞いたりしたことがあるだろうか。
本格的なキャンピングテントの軽量ポールを用いた設計を誇るアウトドアファニチャーは、
近年、トレッキングシーンを一変させた。
高所登山からソロハイキング、ツーリングキャンプやビーチライフの
あらゆる経験と実績を持つDAC社の立体構造技術を駆使した、
最小・最軽量のアウトドアチェア〈Chair One〉はその正道だけではなく、
すぐ近所の公園やアパートメントの目の前、植込みの片隅や歩道といった
あらゆる場所に人々が自分の場所を持つことを可能にしたと言ってもいいのだと思う。
これまで自室に持ち込んでいたそれを、これからはいつでも持ち出すことが出来るという意味の更新なのである。
自分自身の本質を望むのであれば、外へ出て直接見て、聞いて、感じるより他に良い方法はないだろう。
自分の立ち位置は対外的なビジョンの中で飛躍的に更新されるものだと誰もが信じているはずである。
ここで大切なことは、何もこれといった限定的なモノのことではないということである。
例えばアームシェルやダイアモンドチェアの様なワイヤーメッシュ構造は楽に持ち運べるものだし、
ルーフトップに会議室を移すだけで思考のプロセスが変わろうというものだ。
それでも〈Helinox〉と指名したのは〈Monrõ〉というレーベルコラボレーションの
スペシャルエディットのファニチャーが存在するからである。
ブランドストーリーには「日々刻々と過ぎてゆく都会の時間を離れ、
ゆっくりと流れる時間・空間を体感するとき、人はかけがえのない豊かな喜びを感じる。」とある。
他でもないこの時間という概念自身に現代の都市のインスピレーションを感じたのであって、
確かにUrban Bohemianの喜びには外へ持ち出すイマジネーションの新しい価値をもたらせてくれる予感がある。
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〈Monrõ〉創設のきっかけ自体が、自分たちのほしい製品がマーケットに存在していなかったという、
ごくシンプルな動機である。元々アパレルメーカーに勤務していたという製作チームは
モノつくりに対するノウハウは元より、そこへ向う集中力も走り出す発起力も十分に備えていたに違いない。
新しいものを作り出す上での障害などはいつでも付いて回るものである。
そこに躊躇しなかったのは、買いたいものがないという原初的な欲求不満が意思を与えたのではないだろうか。
自らがモノつくりに携わるが、しかし、そこに欲しいものがないという、
このジレンマは実は、日本国内の多くのアパレルメーカーが内包する大きな問題でもある。
本当のことを話してもらいたいのだが、
ほとんどのドメスティックなアパレル企業人は
自分のところの商材を“購入して”使おうという気を持っていないではないだろうか。
残念なことなのだけれど、これは自分たちの生み出した商品に
プライドを持てていないことの表れなのではないだろうかと勘繰ってしまう。
そうであるから、自分たちの世界を描く〈Monrõ〉のプリミティブな衝動には大きな期待が寄せられる。
グラフィックの印象は僕の胸に突き刺さろうとする。Helinoxの座り心地にほっとすることが出来る。
決して安価なアウトドアチェアではないけれど、その世界観のために応援したくなることは間違いない。
外へ飛び出そうとするインスピレーションのための一脚になるのかもしれない。
青い空の下で腰を落ちつけながらそう感じている。
楽しいモノ作りが消費行動より以前に、作り手自身の喜びであるように。