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手に入らない欲望
手に入れる現実
昇華できない本当の価値

スウッシュ・スリーストライプ・NB
個性という履き心地を忘れない、
‘90s第一次スニーカー全盛時代の記憶。

NIKE・adidas・NB・Converseに青い春を過ごし、お隣同士に並ばされたファッションに同じように頷く。スニーカーにはじまり、スニーカーに終る価値の本音。

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初めて本物のAIR MAXをライヴで見たとき、そのかっこよさに震えさえした。
そんな憶えがある人も多いのではないだろうか。
造形美とも、機能美とも、そんな言葉をつかったこともない子供にとってさえ、
その輪郭とラインは衝撃となってまっすぐに入り込んできた。
それを見るためだけに何度もショーウィンドウに張り付いては、憧れをまっすぐに臨んだ。

 

air maximum and minimum of life

air maximum and minimum of life

http://beggarsvintage.tumblr.com/

 

スニーカーブームと呼ぶには社会的時事としてあまりに大きすぎた第一次世代は、
確かにスニーカーという初めてのショッキングなカルチャーへの、
第一ステップを踏み初めていたのだろう。
ニュースで流れる‘スポーツシューズ’の映像と、
さっき見てきたばかりのAIR MAXがリンクして頭の中に定着するには、
あまりに熱に浮かされていたのだと思う。

 

そう、『AIR MAX1』が初めて東京に到来した頃、僕たちは未だほんの子供だった。
街にたむろする高校生は全員が不良にしか見えなかった。
大学生ともなると大人そのものに他ならない鬱陶しい存在として敬遠する。
そんな年頃にAIR MAXという黒船は、
その後の価値観を揺るがす為の偉大なる深淵さで存在していたものである。

 

どこの町でもそうなのだと思うのだけれど、
教科書などろくに開かないおかげで冬がやってこようとしている季節まで
刷りたてのインクの匂いが残っている様な少年たちが、
スニーカー特集の載った雑誌にだけは噛りついた。
買えもしないのに、どのモデルのデザインが良いのか真剣に悩んだし、
新しいモデルがほとんど秋冬に登場することも知った。
持ってもいないスニーカーの真偽を確かめるチェックポイントは
少なからず諳んじることができたのもこの頃で、
プロトタイプのデザイン配色や差す色の絶妙さをスケッチして驚愕していた。
とにかく、ほとんど神学的に『NIKE』という純粋信仰対象だけを
見つめていたのは決して少数派の声ではないはずである。

 

air maximum and minimum of life

air maximum and minimum of life

http://adollartwenty.blogspot.jp

 

当時ほとんど天文学にしか思えないようなプライスタグの付いたAIR MAXを、
薄グレーの冴えない中年サラリーマンが会社帰りにプラッと買って帰る姿を見ると、
無性に腹が立ち、そしてサラリーマンの白んだ影のように情けなくなったことがある。

そしていつの日にか、そうやって思いつめたようにのめり込み、初めてAIR MAXに足を入れた時、
ようやく手に入れたもののフィット感が身体中を包み込んでいくのと同時に、
同じものを‘みんな’が大事そうに履いていることが目に入った。

 

入ってきてしまった。

 

air maximum and minimum of life

air maximum and minimum of life

http://nikeharajuku.jp

 

自分の手に届かないところにあるからこそ、格好良く崇められるものがあり、
それを自分よりも‘愚かな誰か’が簡単に持ち去っていくということが往往にしてある。
そうしているうちに、好きで好きでたまらないと思う一直線の欲求を果たせないまま、
ふと周りを見てみると全員が同じ格好をしているのである。

正直につまらないと、その時初めて思った。

それからは、ものを額に入れて仕舞い込むことも理解出来るようになった。
誰かの価値と混同していたくなかった。

 

だから、それはそれでよかったのだと思う。

 

air maximum and minimum of life

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http://www.nike.com

 

欲しいと願いながらそのものを外側から見つめる時、自分の中で昇華してしまえる時がある。
物の力を見限ることを、飽きっぽい自分の性格を、呪うことしかできないのだろう。

前のめりになって情報を取り込んだ先に残るものが、‘そのもの’に対しての真価ではないが、
自分の内に消化されないで居残るかたちが後々のセンスに現れてくるのは確かだと思う。
スニーカーというものは当然それぞれの輪郭があって、色があり、価値がつく。
けれど、メインストリームをリードする『NIKE』、『adidas』、
『NEW BALANCE』、『Converse』『PUMA』、『Reebok』といった
ブランド力のあるシューズにどれだけセンスの拠り所を求めたとしても、
履いて外へ出れば必ず誰かと克ち合うことに退屈を覚えてしまうものであることも覚悟しなくてはならない。

 

ファッションという大波に乗っていたり、敢えて遠巻きに眺めていたりすると、
その同一化されて並ぶ面前に嫌になる自分に気がつく時間がやってくる。
自分の思うように自由に選んだはずのものと、
どこかの誰かの仕掛けたマーケット的アタックが
全くの同一線上に影響しあうマスを作り出すということが多々あり得るがために、
同じスニーカーを履いた赤の他人が電車で隣に立っているかと思うとぞっとするが、
ファッションは見かけ上の出来事としてわかりやすく、
共同生命体の倫理を絡めとって顕れるものなのである。

 

AIR MAXという稀代のプロダクトデザインに直面した少年時代、
多くの人がそう信じたために真実となった価値観、
世間の声というフィルターを通して正義を勝取った共通意識。
物事の価値や常識は嫌というほど聞こえてくるものであるのと同時に、
それをソツなくこなすのが立派な社会人だと認められるところとなる。
そうやってほとんど同じ人物が増えていくのかもしれない。
大人になるというのはある意味で、
そんなまわりのことを気にかけて思いやることができるということであることは理解るけれど、
そうやって生きているうちに気持ちが寄せては返し、
それでも純粋に没頭していたあの初めのインプレッションを求めてしまう幸せがある。

 

自由に踏み込むことが出来る時代時代のファッションとして、
『NIKE』『adidas』だけではなく、スニーカーに対する思いは
人それぞれの‘思い込み’的思い入れが色濃く顕れるものに違いはないのだろう。

 

air maximum and minimum of life

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http://nikeharajuku.jp

 

10年後、あるいは20年後、ほんとうにそれを持っていなくてはならない。

自分だけのセンスの価値を思い出すために