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アートはだれの
アートはどこから
アートをどう受け取る

ソフィ・カルとモードの体系
境界線を乗り越えて見る
アートと現実という親和性

尤も私には関係のないことだと思った。全く自分の満足のためだけに生きていたというのに、このイメージは存在をすっかり翻弄してしまう。

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好きか嫌いかはさて置いて、アートと呼ばれる世界に足を踏みいれてみようと思う。
学術論的な講釈ももちろん棄て置いて、自分のもの、関係するものとして受け取るには
ある程度、僕たちの方から一歩を踏み出さなくてはならない。
絵を描いたり、写真を撮ったり、文字にしたり、造形したり、
美術館やギャラリーへ足を運ぶこともその領域に踏み込む行為だといえるだろう。
その一方で、或いは全く自分とは縁のないものと切捨てた絵空事として片付けるという態度もあるのかもしれない。

 

〈ソフィ・カル〉は写真や文章、モチーフオブジェを主要素にして、
少し風変わりなイメージを構築するアーティストである。
時に、スキャンダラスであることは現代美術にとってある種のスペック化された常備薬のようにも見られるが、
一見すればすぐにわかることに、彼女の作品にはどことなく物議を醸し出すのに、それも希有な空気が流れている。
アートと個人という領域、自己世界の境界線を軽々と飛び越える。
感じるには、ほんとうにここにいる人々という様々な生を意識の共同を体としてかたちにしようとしている。
今、最も人の心を揺らすコンセプチュアルアーティストの一人は境界線の上の人なのだと思う。

 

〈 Suite Vénitienne / ヴェネツィア組曲 〉 1980

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http://ngentile.tumblr.com

 

ソフィ・カルはこの作品に取りかかる少し前に開かれたパーティー、
それもあまり気乗りしない類のものに出て或る一人の男に出会った。
そうして少し話している内に、この男性が近々ヴェネツィアへ行くことを聞いたという。
アーティストはこの時から2週の間、パリからヴェネツィアへとそのほとんど見知らぬ男を尾行したのである。

 

ソフィ・カルというアーティストの見たことを追体験するという、
とても個人的で、親密なコンセプトのもとに視覚化されたこの作品は、
どうしたことを訴えようとしたコモンアプローチだったのだろう。
作品の中の写真やセンテンス、オブジェは“ソフィ・カルの”記憶の証明として再構成されたものである。
これがアート作品であるがために、ストーリーの真実性を伝える構成物のひとつひとつは、同時に作られた嘘とも言える。
勝手に後を尾行けられた他人のイメージと、ソフィ・カルが見つめる先にあるイメージは、
同じものでありながら全く異なったものである。
本当のことと、本当ではないことの意味はこの時、一瞬無意味になる。
人々が語るストーリーは当然、たったひとつのものではないからである。

 

この点から見てみると、ソフィ・カルの作品は必ずしも彼女だけのものではない。
他人の領域へと頸を突っ込む、先述の物議を醸し出すのはこの場面においてであって、
その目に見えることに曝された主体、それは彼女のものなのか、他人のものであるのかはっきりとしない。

この主観性の留守状態が、アートとして捉えられるだけではすまされないイメージを見る人に与えることになる。
それはイメージを作り出したソフィ・カルにも後を尾行けられた人にも、
どちらの領域へもすぐにたどり着くことができるということである。
インスパイアの基となる人々は、誰にでも当てはめられるという可能性をもっているのであって、
ソフィ・カル作品が他のアートと決定的に異なるのはこの点において最も大きな閾値がある。
人々は常に彼女のアート領域に踏み込まされているのだ。

 

現実に起きる、ほんの少しだけおかしな事態
これは捕まえたと思った瞬間に零れ落ちていく圧倒的な他人との関係に境界線がふらつくことに依るのではないか。
リアリティとアートという虚構の世界の境界線上の人、
ソフィ・カルという多重の主観が描くのは人々のそうした不可避の存在感なのかもしれない。

こうした観念からソフィ・カルというソーシャルアートはとてもモード的であると言うことができる。
モードとはいつでもこのテーマを主軸に据えた領域のことを指すからである。
相手を見ることなしにモードは成り立たない。
世界には自分のためにモードを着る人々もいるが、
自分の満足するためにという主観性が一人称にあるだけで、基本的にその意味は異ならない。
山奥に住まう他に、その姿を他人に見せないでいることは難しい。
仮に、たったひとりで森の生活を暮らしてみるとすると、
ソローの様にライフ=ファッションという真正のそれに他ならないであろう。
つまり、人との関わりがファッションの本脈であり、領域でもあるということである。

 

〈 Les Aveugles / 盲目の人々 〉 1986

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http://themodern.org/sites/default/files/calle.jpg

 

ソフィ・カルが言語化した「見ること」と「見えないこと」の想像的ビジュアル化作品。

“生まれつき”目の見えない盲目の人々に美のイメージを尋ね、その答えをイメージに再構築する。
盲目の人々が語る美という夢想のイメージは、確かに目に映る視覚的な像になり得るものである。

 

〈 La Dernière Image / 最後のイメージ 〉 2010

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http://www.arndtberlin.com/website/

 

2010年には、13人の“かつて見えていた”盲目の人々に出会う。
この作品で尋ねられるのは、彼らが最後に見ていたものは何だったのかというものであった。
タイトルとこれだけの序文が、作品のビジュアルに意味を人々にもたらせる。
エモーショナルでショッキングな共感を伴いながら。

 

プロジェクトを通して明らかになったのは、人々が一枚のイメージに対して、
その存在を共有できるだけの虚構すら間が持たないということである。
誰一人として同じ視野を持っていないという当たり前の本質であった。
ソフィ・カルが現したのは、追体験という人それぞれの絶対の主観性である。
人と人の間の境界を乗り越えるのは、それを前提に納得したうえに、
精神の深いところで感じる繊細な意識の共振であるのかもしれない。

 

〈 Voir la Mer / 海を見る 〉 2011

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https://www.perrotin.com

 

内陸部に暮す人々の仲にはしばしば、海という大いなる母を目の当たりにしたことのないものがある。
人生の中でたった一度も海を見たことのない人々に海を見せるところからプロジェクトは始められる。
やってきた14人は海岸で、その風と波の音と肌触りに包まれながら、それぞれの時間でこちらを振り返る。
14の人々はその思い思いの海に触れて、その表情を14本のビデオに映し出す。
14人分の海はそれぞれ、ソフィ・カルとも、他の誰一人とも同じものではないはずである。
人々は同じ時間同じ空間を共有していても、なお同じ視野を持つことはできない。

 

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http://www.fpmagazine.eu

 

どの様に暮していても、そこにライフスタイルを持っていない人はいない。
それぞれのペースでそれぞれの光と闇を抱えて生きている。
これはさみしい事ではなくてごく当たり前の生きていることの生の積み重なりにほかならない。

 

ソフィ・カルが構築するのはその体験を視覚化・言語化した、言わば人々の暮しの証言ともいえるであろう。
そして、そのことはとてもファッション的なエッセンスに溢れている。
人々にとってモードの体系もまた、人との触れ合いによって価値が生まれる場所になる。
〈 海を見る 〉視野はそのままファッション的観念に置き換えることが出来て、
〈 尾行 〉に見えるのは、人々のファッションがいつも誰かの善い記憶の追体験であるのかもしれない。
見えるもの見えないものという誰かのヴィジュアル化されたイメージに感化されるのは、精神にほかならない。
極端なことを言えば…なのだけれど、
だからこそ、今、生のセンスをライブラリーに集めようと境界線を越えるべきなのだろう。