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偏愛の先にある
音楽と写真の蜜月

音楽とは全く異なる
クリエイションでありながら、
なぜAKLOは写真を撮り続けるのか

音楽とは全く異なるクリエイションでありながら、なぜAKLOは写真を撮り続けるのか

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その名の通り、偏った愛の形は人によって様々だ。
対象物は時に文化や肩書きを飛び越え、
圧倒的な熱量とともにその人自身の姿を明瞭に表す存在ともなり得る。

 

 

「偏愛は自分を洗脳することから始まる」。
そう語ったのは、日本におけるサブカルの第一人者であり、
現在もなお様々な分野で活躍する文化人、みうらじゅん氏の言葉でもある。
趣味ほどにライトではなく、純愛と言えるほど尊いものでもない。
何者かに取り憑かれたように求めてしまう究極の愛とでも言おうか。
そこに浪漫と呼べる愛の桃源郷は存在しているはずだ。

 

例えば日本のラップシーンにおける孤高の存在、
AKLOはその類い稀な音楽センスゆえにデビューするや否や、
シーンの急先鋒へと躍り出た。しかし彼の魅力を語る上で、
センスという一言で形容してしまうのはあまりに乱暴だ。
彼を知る近しい存在の人物であれば、音楽への真摯なまでの姿勢、
あるいは態度といった取り組み方であるその全てがプロフェッショナルであることに気付かされる。
そして常に革新性を求める未来に対する意思表示こそが
彼の音楽的バリューを現在の立ち位置へと確立させたと言っても過言ではないだろう。

 

 

コンスタントにヒットチューンや話題作を発表し続けるAKLOがここ数年、
傾倒しているのが写真というアウトプット。
音楽とは全く異なるクリエイションでありながら、なぜAKLOは写真を撮り続けるのか。
本来であれば“撮られる側”である彼をその対極へと誘導したものは、似て非なる趣だったという。
HIPHOP界において最新のテクノロジーや機械操作を駆使し、
新たなイノベーションを起こしてきたAKLOにとって、音楽は自己表現以上の何者でもない。
その彼が自己表現の手段として選んだのが写真だったのだ。
意外性のある問いに対しての答えは驚くほどにシンプルだった。

 

 

意思表示や自己表現という言葉を用いながらも、自然発生的にその作業に取り憑かれていく。
表現者に通じるこの稀有な感覚こそ、AKLOにとっての音楽と写真の蜜月であり、彼の偏愛する形でもある。
異なる分野でありながらも自在に行き来してしまう浮遊の興味が
彼の唯一無二な存在感を絶対的なものとしているのか。
当然クリエイトという考え方の中では、明確にセグメントされたそれぞれの表現ではあるが、
その双方を見比べると今までに知ることのできなかったAKLOの一面が垣間見える。
そこにはあくまで彼の側面、あるいは彼を知る上でのヒントが隠されているだけであり、
我々は彼のフィルターを通した作品によって其々が解釈していくしかないのである。
様々な愛の形がある中で、偏愛を知るということは、
すなわち本質と出会うことでもあるのかもしれない。

 


Photo by AKLO Text by Yuho Nomura