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文明の進化によって失われた幸福
消極的な幸せと積極的な快楽

人生に意味を持たせる先延ばし幸福論は、
欲望のいう人生目標に向かう積極的快楽主義と
何が違うだろうか?

苦痛の欠如の主観的「幸福」は、苦痛も人間的感覚で根ざした「快楽」に比べて、何が違うのだろうか?

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最近EpokalのカテゴリYellow「幸福」に違和感を覚えて「快楽」に変えました。
この一言の違いについて考えていると澁澤龍彦の「快楽主義の哲学」を思い出しました。
10代に読んだ書を再度見ると様々な発見がありました。書の言葉を借りながら快楽に変えた理由をお話します。

 

キリスト教は牛や豚が人間に殺されことを神に与えられた使命と言いました。
そうであれば、牛や豚が人間に食べれるように、人間がまるごと神に食べられるのを宗教と言うのでしょう。
そんな宗教の神は、人々の頭の中に力強いカタチで創造し、気に入られるように生きるというのも
無意味な人生に1つの目的が湧いて良いかもしれませんが、人間のための人間の生き方を考えたいものです。
わざわざありもしないカタチにとらわれて自分の人生を無駄にしたくありません。

 

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そうなると人生に目標が必要です。簡単なことです。
欲望の満ち足りた生活です。不満を求める人はいません。
欲望を満たそうとする努力こそが避けて通ることのできない人生の目標でしょう。
それを望まない人は、よほどのひねくれ者か倒錯的なマゾヒストでしょう。
そんなマゾヒストの代表としては、ボブ・フラナガンですが、彼の話は壮絶過ぎるので次回の記事に取っておきましょう。

 

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欲望の満足には、2つあります。

・痛い目にあうよりあわない、失恋するよりしないほうがよいなどと消極的な考え。

ビジネスでは予防焦点型とも言われます。

・うまい神戸牛が食べたい、絶世の美女と一晩豪華なホテルで過ごしたいという積極的な考え。

ビジネスでは促進焦点型とも言われます。

 

この2つを合わせて幸福なのかもしれませんが、前者は苦痛の回避で後者は快楽の獲得です。
要するに 「幸福の欲求」と「快楽の欲求」の違いなんです。
快楽も苦痛も人間の感覚に根ざしたものですが、 幸福は「苦痛の欠如」なのです。

 

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さらに幸福と快楽の概念を進めましょう。
快楽は感覚的なものに根ざしており万人共通するものです。
残念ながら幸福は万人共通の基準を持たず主観的なのです。
誰がどう見ても不幸の現実と思われる人がいたとしても、
本人が神を信じ自分は天国にいけると思い込めば幸福な気持ちになれるでしょう。
これを先延ばし幸福というのかもしれません。

 

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生活が便利になったから幸福は比例しているわけでもないと思うんです。
むしろ原始人は快楽の原理原則を知っています。食べて寝て性交をする。それのみです。
その性交のみが快楽の基準とさえされていた時代です。
そして、狩猟も快楽の1つだったでしょう。 動物を猟り、運び、解体して食べる。
この一連の作業に半日を要します。 今ではレストランの席につけば、30分といったところでしょう。
その生きるというための食への猟りは、快楽そのものだと言えるのではないでしょうか?
村上龍の「愛と幻想のファシズム」を想い出します。ハンターの生命と人間の強さを感じるのです。

 

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そういう意味では幸福とは主観的で掴みどころがなく、感受性や人生観、教養によって変わるのです。
それに反して快楽には確固たる客観性な基準があり、肌触りもあれば質感もあり重量感さえ感じれます。
そう考えると快楽は瞬間的なものであり、幸福とは持続的なものでしょう。
哲学者スピノザはこう言いました。
「幸福とは人間が自己の存在を維持しうることに存する」と。
フロイト先生はこう続きます。
「幸福による安価な満足を求めるのは、寒い冬にむき出しの脚を掛け布団から外へ突き出して、
また中へ引っ込めるようなものだ」と。

 

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そうなると、快楽は瞬発的に燃え上がり燃え尽きる花火のようなもので、
人間を行動的に駆り立てる美しさや力強さがあります。
ですが、幸福はそんなデカダンスで耽美的な快楽を求めて身を滅ぼしてしまうなら、
静かで持続的な幸福の生活を送りたいという人は多くいます。
激しい快楽のあとのおそろしい悔恨や苦痛がやってくるからです。
そう考えると文明や習慣や伝統は、幸福のためにあり、文明の進化も幸福と密接な関係があると考えられます。
だが、皮肉にもこの機械主義や資本主義は、万人の幸福を約束するものなのでしょうか?
フロイト先生は「文化の不安」という論文で、文明は人間を幸福にするために作られたのに、
かえって進歩が幸福と敵対している要素があると考察しています。
フロイトだけでなく、誰もが感じていることではないでしょうか?
いっそのこと、エスキモーのような単調な生活に本当の幸福があるのでないかと疑いたくなります。
ですが、この考え自体も結局のところ主観的な限界を超えるものではなく、
牧場でのんびり草を食べている牛を見て、
「あの牛には生活の苦労がなくて幸福だな」と感じるようなものです。
牛は「もうたくさんだ」といってるかも知れません。

 

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このように幸福とは曖昧なものなのです。 苦痛や不幸は人間の生活を常に脅かします。
体から生ずる苦痛という「病気や死」、外界からくる苦痛という「災害」、人間関係から来る「社会的苦痛」。
私たちの周りには、不幸が取り憑かれるように存在し、それに免れたと思う消極的な満足が幸福なのかもしれません。
それは、現実生活に適応するための「現実原則」なのです。
この現実原則で支配する社会は、必ずしも幸福の増加を約束しておらず、むしろ現実原則を発達させ、
快楽を掴もうとする人間本来の欲求を喪失させるものです。
村上龍の愛と幻想のファシズム的に言うと、「野生を失った動物」同様なのです。
自然界では、野生を失った動物は、価値を失い独立して生きていけなくなり、
自然界のルールを犯す存在になります。
そして、その現実原則に壮絶に立ち向かった書が、以前取り上げた「さかしま」のユイスマンスです。
膨大な鐘を使って、現代の自然・現実に反逆し自分の趣味にぴったり合った人口楽園を完成させました。
そこには、知識や教養ばかりでなく、ひとかたならぬ肉体的精力と財力を必要としました。
日本の山奥の隠居とは訳が違うのです。
この文字通りさかさまな人口楽園は厳しい自然と対立し 官能を研ぎすまし、
精神王国を守りながら快楽主義の城を構築しようという不屈の意思が読み取れます。
ファッションでいると川久保玲のコムデギャルソンみたない精神に近いものを感じます。
人口楽園とはそういう意味です。是非Epokalの人口楽園Utopiaのコンテンツもお楽しみください。

 

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ユイスマンスから感じれるように、幸福は頭の中から取り出す必要があるかもしれません。
行動すればことによる「その何か」は訪れます。アリストテレスも言っています。
「幸福とは実践である」と。
向こうからやってくる乾びた幸福よりは、
自分で作り出す快楽へ実践の中から取る快楽にこそ本当の魅力があります。
耽美主義者のオスカーワイルドもサロメで言っています。
「幸福ではない。断じて幸福ではない。快楽だ。」 「自分は大作家ではない。しかし大生活者だ」と。

 

この気の抜けたビールのようなソーシャルなムードに対抗する処方箋は快楽にしかなさそうです。
そんなことを考えながら、EpokalのコンテンツYellowの幸福を快楽に変えました。
僕たちEpokalも「書を捨て猟りに出よう!」そんな話を最近しています。
2Dの平面の情報にも飽き飽きしてきたところでした。
3Dのというリアルを感じ、危険を感じ、主観の限界を超えたい快楽を求めたいと思っています。
雑誌LIFEの標語の影響も多少あるのかもしれません。
Epokalのリアルについては、2015年にも動きがあるのでご期待ください。
快楽主義については、また別の記事で深く考察したと思います。