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少年が見つめる
時間環境と変化する自分

誰の心にもある親近感をもつもの
それがメイソン少年として現れた
時間の具体性なのである。

「12年」を映画館の外にまで感じてしまう。エラーの視線は、何故か、誰のためにも、親近感を抱かせるに十分な隙があるのだから。

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『6才のボクが、大人になるまで。』映画をご覧になった方も、
そうでない方も、少年時代の面影をつづけて今がある。

12年という年月に何を感じるだろうか。

 

映画のストーリーについて触れることは無遠慮なことだとはわかっているが、
イージーに展開させなければ背景に着色出来ない。

オリジナルのタイトルは『boyhood』6才だとも、大人になるまでとも、言ってはいない。

エラー・コルトレーンが演じる6才の少年メイソンが、周囲の環境や日常という何気なく、
そして切れ間なく変化する日々を子供の視線を透過して見たものである。
高校を卒業して進学、いえ、社会的生活へと旅立つまでの12年間を、実際の年齢と同じ速度で積み重ねていく。
つまり、メイソン少年はそのままエラーの成長であるという、
このプロセスはなんとも不思議な概念を抱いたものだろう。出演したキャストはもちろん、
撮影スタッフもほとんど同じメンバーでこの「12年」に取り組んだという。
毎年、夏休みが来ると、1週間か数日の撮影を続けたというのだ。

 

boyhood

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https://www.facebook.com/boyhoodmovie

 

時間という曖昧な一瞬一瞬に目を向けたリチャード・リンクレイター監督の感覚と、
12年という具体的なキャンバスに正面から向き合った勇気に拍手がおくられることだろう。
誰の心にもある親近感をもつもの、それが「12年」として現れた具体性なのだから。

 

 

劇中のあるシーンで、ストーリーの本筋とは無関係、とは言え、背景や心象を裏付けるために欠かせないものがある。
そこここにちりばめられた、何気ない日常で時折、ふと、ある時メイソンではなく、
エラー本人のエピソードドキュメントを感じることがある。
映画のストーリーという作られたものの上に、実に肉を見る場面が現れるのである。

12年間同じ役を演じたのはエラーだけでなく、3人のメインキャスト、ローレライ・リンクレイター、
パトリシア・アークエット、イーサン・ホーク、それからスタッフだって、
時間という流れの中で全体を描写した。だからこそ、肉を感じるのだと思った。

 

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https://www.facebook.com/boyhoodmovie

 

映画で作られた虚構の家族は、長い年月を経て、本当のつながりが生まれたことを見せてくれる。
実際の…普通一般のという意味での、家族であっても、
同じものを見つめて12年という年月を過ごすことはないのではないだろうか。
父親役を演じたイーサン・ホークは、メイソンSrの役を通して、
自身の「父親像というものを作り上げることができた素晴らしい機会」を見つめた。

 

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この映画はドキュメンタリー作品であるし、フィクションの美しい要素もある。

こうした時、「12年」は映画館の外側にまで飛躍して感じてしまうのである。

 

素直なところ、映画を観る前は『6才のボクが、大人になるまで。』というタイトル、
12年間の撮影期間、少年から大人へといういくつかのキーワードから、
世代的に父親のメイソンシニアを演じたイーサン・ホークに親しみを覚えるべきものだとタカをくくっていた。
あるいは、子供の成長を予見させるところに涙の匂いすら感じることも。

ところが、事実はちがった。自分の想像や期待は裏切られることに高揚がある。

エラー少年・青年の視線こそ心象であったからだ。年はざっと10以上は軽くちがうし、
環境も、物質的な影も比べるものはない。それにもかかわらず、
エラー青年の視線は、何故か誰のためにも、とても親近感を抱かせるに十分な隙があるのだ。

 

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12年間の積み重ねられた瞬間瞬間の協和が成長という意味に相応しいし、今日、少年時代をよく想う。
逆に6才ぽっちの少年は今日の僕たちを夢見ていたはずだ。
それだから、やっぱり今日から先の「12年」を感じることが出来る。
エラーが見た視線は、誰の目にも映る景色「少年時代」を掘り起こしたのではないだろうかと。
変わらない変わりつづける自分を持つだろうと思っていたあの頃である。

あの頃は何でも出来ると思っていた。ではなく、「あの頃」は今もつづいているのではないだろうか?

 

誰にとっても、自分は1人だけれど、こうして考えてみると、あの時の僕は今日の僕を見つめているに違いない。
少年から少しだけ成長したのは、こういうことなのかもしれない。
6才の僕に笑われないために、惰性で生きるのは止そう。
男性にとって少年時代は特別なものだから、 どこから始めるべきかは、
きっと一人の時間の中に答えがあるはずだと思う。

 

映画に戻ると、時間という変化しつづける環境のなかで、1つだけ変わらないものがある。
イーサン・ホーク演じるメイソンSrの乗るPontiac GTOがそれだ。
要所要所で降りてくるシニアの言葉に沁みるものが、僕たちに言い聞かせているようでさえある。

時間や流れは、咄嗟に目には見えないけれど、確かに僕たちのそばにある物事であり、
すべてが変化していくなかで、1968年式のGTOは象徴のように映るのである。

 

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 http://www.nytimes.com
 

少年時代や夢といった言葉を持ち出すことは簡単だけれど、
当たり前の日常を抱いて明日へ持ち込むこともハピネスにつながるということを知る術は、案外ないものだ。

そんなことを感じさせられる映画である。つまるところ、時間に祝福されたのは僕たち一人一人の話しであったのだ。

映画を通して、映画のストーリーの幸福を得ることは良くある素晴らしい作品であるが、
『6才のボクが、大人になるまで。』は映画の視線を通して、日常という時間を、
見る人の一人一人が獲得することが出来る不思議な名作である。

そして、メイソン少年は出会って良かったと思わせる。僕たちの手のなかにその重さは宿っているのだから、
それぞれが持つ「時間」が、振りまかれた映画に、良い映画、良くない映画、まあまあの映画といった感想は似合わない。

 

時間の流れと完全に協調するのは、僕たち一人一人の成長にほかならない。

これまでの12年も、これからの12年にも、僕たち自身の意味を主体的に持つことが大切なのではないだろうか

 

6才の少年から見たら、腑抜けで終わらないために