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100点を買うよりも先ず
0点のセンスを目指す
ファッションのうまみ

かっこいいを望んだファッションが
マスプロダクトで評価されるシニカル
古書店に鑑みるセンスのなる箱

良い本屋には本という個性が集まる。良い本にもまた良い教唆が集まって、今日、ファッションに良いセンスは集まるのだろうか

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どの位ぶりだろうか、もう何十年も前のことの様にも、ついこの間のことの様にも思える。
東京ファッションというシーンの多分、中心か、そうでなかったとしても、
ほとんど核心部分にはあるだろう街、猿楽町へ。何を気にするでもなく、
ただ近くに用事があったから立ち寄っただけなのに、何だか感じるものがいくつも少ないように感じてしまう。

 

 http://www.ria.co.jp

 

数年前に立ち上がった小さな〈町〉に集まるのは、ずいぶんと瀟洒な雰囲気と、
今、“最高”のオシャレを身に纏う人々の姿である。

 

ファッションチェックで100点満点を叩き出すであろう人々の影をいくつも追いかけたとしても、
「かっこいい」人などはほとんどいないということだけは、呆けた頭にもようく理解できた。

本と同じに、知性と時間の共有を醸し出そうという空間の雰囲気に、何も見えない様な感覚に落ちてしまったのだ。
そうやって「ファッション」というファッションの忠実なメッセンジャーに、
その終焉を見ているのかもしれないと感じていた。

 

ファッションを着るモノとしての服にとって、ポジティブな表現としては、「かっこいい」か「かわいい」
それとも「美しい」とか、そのあたりの体表でいうと外側の、精神でいうと上部を指すものがある。
ところが、繰り返し感じた。ファッションはその内側の方に重心を動かそうとしているのではないだろうか。

昔々からそうであるのは「かっこいい」の本筋とは、例えば、
男の背中に象徴されるような他者の見た「姿」であることであって、「すがたかたち」そのものではない。
生き様や姿勢といったところに重く潜在しているということにある。

言い換えると、全身をエディ・スリマンのスーツで固めたとしても、「それであなたは何をしたのか?」の
プリミティブな問いに答えるためには、自分という価値の重さを理解していなくてはならない。
20年前なら、ファッション好きで通った表通りでも、
今はもう、自分の意思がなくては、ただのキラキラした廃屋にすぎない。
本当はずっと大昔から当然のことなのだけれど。

 

そうなのだから、なんと言うか、ああオシャレだなと思わされる姿かたちはたくさん行き交っているけれど、
ようやく今、はっきりと見えてきたことは、衣服がつまらないということだった。

 

Epokalのサブタイトルにもある、「Feel Library」はなにをフィールするのだろうかと、ふと考えていた。
そんな時、ファッションの、それも取り分けて、
衣服でないところに求めた何かのために古本屋が見たいのだと思った。
何から何まで積み上げているインテリジェンスの隙間に込められているのは、
「センス」と言ってしまうと軽々しいのかもしれないが、どんなところから出てくるのかわからないものを、
纏め上げる箱のような抽象が古書店なのではないだろうか。

 

book sellers’ sabotage

book sellers’ sabotage

 http://ridgemg.thebase.in

 

靖国通りから、ひとつ高く据えられたエントランスに立ってみると100年以上もの以前から、
文科の門となってきたステンドグラスがその風土を感じさせてくれる。
「一誠堂書店」の抱える空気は、ほとんど姿をかえることなく保たれた意識に支えられているかの様にそこにある。
迎えるのはアールデコ調の内装に、柱時計。親柱から文海を灯す、やさしい光のランプがある。
多くの人々が良い本を探し求めて踏みしめた木製の床に、
古書店の役割が集約されて、ひっそりと輝いているように感じられた。

古書を探すという行為は、ある意味で、その人の頭の中を覗き見ることが出来る可視的で、意識的なことである。
これをお互いに見るともなく共有しあうことが、居心地の良さであり、反対に刺激的な好奇心の源泉へとつながっていく。

 

book sellers’ sabotage

book sellers’ sabotage

 http://www.isseido-books.co.jp

 

こうした場としてのライブラリー、とりわけ古本屋という、
どこの町にでもある開かれた脳内ギャラリーの感性に倣うべきものがある気がしてならない。
それぞれが持ち寄るのは本なのか衣服か、センスが呼吸しだす瞬間である。それも意思に支えられたものの神通力。

お互いに交換しあう感覚の、この連続の形態にファッションは負け越して、
いつの間にか大きく欠けているのではないだろうか。

 

ファッションが最も欲しかったものは何だったのだろうか。
「かっこいい」とは、必ずしも、ファッション自身の意義と同列で飾られてきたものではなかった。
そのキーワードには、どこか人から抜け出た存在、姿勢、といった差異のポジティブな個性が込められているのだと思う。

雑誌やウェブメディア、広告に、この場所を含んだあらゆる情報媒体のどこかで見られた誰かの
「超かっこいい」がそのまま画一的に拡がっていく/もしくは、いってしまう。
もしもこのシステムの上に躍り上がると、いつの日か、ハズしたスタイルがどうやってかウケて、
これが100万人に拡がった時「ハズす」=「キメ」というシニカルなロジックが生まれてしまうのだろう。

ファッションという生命体のおもしろさは、実はここにあるのだけれども。

 

場所によって、人にたよって、瞬間の、何を自分自身に「Feel Library」するかによって感性が呼び起こされるとすると、
誰からも誉め称えられた瞬間に、そのファッションは陳腐な死に陥っている。
みんなが同じ顔をした通りほどつまらない場所はないだろう。
なるべくたくさんの感性に触ることが、生命体を維持する良質なのだと、
つまり、いつでも人との出会いを集める場所に「Feel Library」の行間を埋められる何かが待っているはずである。