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自然化する人生のトーン
ぼくたちを包み込む
ビオトープを暮らす

〈生命〉のなるファッション
〈場〉となる精神
共生する流行という川の源流

生命体としての人々のコミュニケーション今日、必要とされる〈共生〉を生きる21世紀シンドローム

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人混みの中を踏み越えて家へ帰ろうという時間、何百何千回と繰り返した日々のなかの、
いつもの町のいつも薄明るい空を見上げて、どこへ急ごうというのか不安になることはないだろうか。

21世紀という半ば、“近未来”の現代を暮らしている僕たちの世界は、
何が現実で、どこが自分のものなのかを簡単に見失うことができてしまう。
生命をどう繋ぎとめるべきなのか、そもそもそれが自分のものであるのか、
現実をつかみとることは、案外難しいことのように感じるのです。

 

僕たちが“生きて”いく、アスファルトだらけの視界であまりに呼吸が苦しくなってくる

窒息してしまうその前に

生命としての存在を社会環境という生息空間で潤すのはどうだろう

 

biotope of mind

biotope of mind

https://acuariorosa.wordpress.com 

 

コンクリートに囲まれるがままに、高度に発達しつづけて、
確かに、便利で住みやすい町つくりはここまでやってきた。
利便性や豊かさは、世界中で求められているものに違いはなく、
それも、そこに快適さを感じることがイコールで結ばれていると、誰もが信じて疑うことはなかった。

そういうより、豊潤=幸福、の他にあることなどは誰の目にも見えていなかったというのが本音なのかもしれない。

 

日本にはその背景に、大昔からつづく水との共生がすぐそばにあった。
水辺を取り巻いて生活があり、食べることや暮らし方といった文化的な枢は、すべてここから生まれてきた。

それでも、日々の進歩によって僕たちは、生きるために必ずしも
「水」という生命や自然信仰を第一位の対価に考えを置かなくてもいいようになってしまっていた。
豊富な食物に、暖かい部屋、おかげで楽しい時間はいつまでも続くのかと思わされていたのです。

 

今日までのちっぽけな超近代史の中で、最も失われたのが、
この最も身近な水環境であることは考えてみれば簡単に導き出せる現実。
開発という何かの勘違いが何を持ち去っていったのかは、
いつの日か、自分が何者であるのかを量るのと同じ時に思い出すことができるだろうか。

 

自然に近づけた人為的な生態環境、「ビオトープ」という生物営みの場を作り出すということは、
時間の流れと、高度なプロセスを体得することで、はじめて、
必然として、社会に生み落とされた内省的な側面を持っている。

 

biotope of mind

biotope of mind

http://www.osakagas.co.jp/company/efforts/next21/

 

どこかで都合のわるい事が起こった時に、それらを省みることが出来る能力、
何れを行動にすることが出来る意思は、常に外国から、殊に欧米から持ち込み続ける日本にとって、
最も必要なことは、個人個人がそれぞれの善良に頼って、行動するという能力であることにちがいない。

 

1980年代に入ろうかという頃から〈環境〉という、たったひとつのキーワードで括られた要素が、
前進を夢見続けてきた社会全体にポツポツと現れはじめました。
自身からこぼれ落ちたのにも拘らず、また、それを振り払うかのように無いものにして、
当初は、むしろ「豊かさ」へ向かう足を引っ張られる感覚を覚えた人々も少なくはなかった様子さえ見受けられる。

 

ビオトープとは、基本的には近自然の状態で生態環境を生み出す、
もしくは維持・保護する人為的な創造にすぎないはずだが、こうした環境を見据えたシステムを積極的に、
実践する場が、現実に現れ始めた時、生命活動だけに留まらない抑揚を見ることも出来る。

 

NEXT21 Osaka Japan

biotope of mind

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http://www.studiomarcopiva.com/next-21/

 

純粋に、ワクワクしてしまうのはどこから見た感性なのか、
これには、豪快な超合金の威風もなく、はっと驚くようなフォルムもなく、
ミニマムで真っ白いフューチュリスティックな印象もない。テクノロジーとは無縁の素貌さえ漂わせている。
しかし、先端技術の見晴らしは、確実にここから生まれてくるのだろうと予感させる、
その意思と実践から吹いてくる風に、僕たちの気持ちがついているからこその、眺望なのだと思う。
面白いが模範になることで、いつもここから創造がはじめられ、フェーズは新しい時代へと移ったのです。

 

つまり、人為的で多様な生命環境を創造することにある、生態系を作り出すことが、
より良い社会的行動の先に有機的に結びつくのであるとしたら、
生物群・生物社会の生息空間を単に促すだけでなはなくて、
その同じ意味で、自分たちの心意を整えることが、精神と感性の誕生の機会へとつながっていく。

だとすると、僕たちは何も、ただただ生き延びるためだけの軽はずみに生きている生物ではないので、
文化人類としてのビオ(生命)とトポス(場)とは、
ファッションやカルチャーの様なライフスタイルの伸び伸びとした温感を大いに揺さぶることになる。

 

Ot Hoffman

biotope of mind

biotope of mind

 http://www.biotope-city.net

 

自分の為になにかを成すことが特別なものではなくなった今、僕たちはもうひとつ先の景色を覘いてみたいと願う。

或る一人が生きるライフスタイルを一つの“文化的”生態系だとすると、
僕たちは池のメダカとは違って色々なところへ、少なくとも願って、行動すれば自由に行くことが出来る。
多分、この「願って」のところに文化の種が落ち、そこで出会った相手の、
話すことに、しぐさに、表情に、佇まいから、渡ってくるものが芽生えになるだろう。
ハーベストはすぐにでも目前に広がりそうな気配すら漂っていて、
今、ただすれ違っただけの人でさえ、影響とは波のように伝わっていくのかもしれない。

 

空想的で理想的、妄信的な物事を並べ立てることは、綺麗事だと後ろ指を指されることもあるだろう。
しかし、それでも、僕たちはファッションで何かをかえたいと願うし、何かをかえたくないとも願う。
他のどんな社会環境よりもファッションはいつでも綺麗事を牽引してきた。
生態環境は、この「ファッション」を利用して理解を広めれば良いし、
これこそがファッションという独壇場であり、それもわからない者には中指を立てればいい。

 

人のための生息環境とは、こうした意思や感性といった、
それぞれのセンスの交換・交叉がいくつもの流れを創造することを示しているように感じている。
それはもしかしたら、便利性や効率性を結果的に取り上げてしまうのかもしれませんが、
そのハビタットの中に個人としての精神の場を見出せるのだと信じるのに十分な価値が、
循環して流れつづけているように思えてならない。