Gooniesとライフスタイルの合言葉〈Never Say Die〉

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YELLOW 快楽

何でも教えてくれる社会
ふと視線を外して
染みついた教科書を棄る

そこに宝物があると指差された時、
既に地図の上でしか身動き出来ない身体になる。
グーニーズにそんな地図の引き破り方を見ていた。

5minutes

何でも教えてくれる社会
ふと視線を外して
染みついた教科書を棄る

そこに宝物があると指差された時、
既に地図の上でしか身動き出来ない身体になる。
グーニーズにそんな地図の引き破り方を見ていた。

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ファッションの見える先
Gooniesという宝物と
オールドスクールの教え

ジーンズ、グレーのチャンピオン。
コンバースにオールドBMXを駆って、
あの日の映画こそは教科書だった。

大人になって見たものよりも、どうしてなのか、昔と言われる頃に見たものの方が好まれるように思う。
人それぞれによって、“その昔”の幅は広くも狭くもなるのだけれど、
例えば子供の頃に、同じ自分が見たものであるのに、今日と、あの日では受け取るものが違うようだ。
昔の方に善いものが多くて、今はもう、その善さは少なくなってきているということが原因なのか、
多分、それにも一因は置けるのかもしれないと理解ってはいるけれど、また違う。ズレを感じることがある。

 

新しく体験したことの印象は、比較的ストレートに真芯で感じやすいと思う。でも、
ただし、一度体験したインパクトは、例えそれと同一でなかったとしても、
近似の出来事として、淡い色に混同されて段段と鈍化していってしまう。

新しく新しく…つまり、何かを新しく体得していないからこその故に、光り輝く“昔”がある。
そういうことで、受け取り方という姿勢ひとつで世界の色がガラリと変わることもあるだろう。
グレーだと思いつめていた今日の日々を、
あの日の僕たちと同じくらいの背伸びをした少年たちに信じてもらいたいと思わないか。

 

goonies

goonies

http://thepostermovement.tumblr.com

 

Levi’sにコンバース、ボーダーストライプのシャツにヘビーウェイトのTシャツ、
スタジャン、杢グレーのリバースウィーブ…チョコミントにオールドBMX!

少年にとって映画の世界は言うまでもなく、羨望とワクワクが詰込まれた宝箱であり、
初めて床屋で注文するのはツーブロックの何インチ刈り込むのかであり、
どこかで仕入れてきたPLAYBOYの切り抜きをシュータンの裏ポケットに挟み込むことの前触れである。
誰の胸の内にもある、オールドスクールとファッションの教科書は映画館の中で広がるものではなかっただろうか?

 

goonies

goonies

https://www.pinterest.com

 

今日の少年に見てもらいたいソフィスティケイトは2つの教科書に集約される。
そして、その一つこそが“THE GOONIES”である。
少年期に見る世界と、青年へと到達するかどうかの
境界線上の自立精神にとって冒険と少しのミステリーは最高の刺戟になる。
超人的でスペシャルなパワーをもって何でも一人で解決していくスーパーヒーロー像ではなくて、
いつでもこの辺にいるような少年と少女のストーリーを待っていた。
文学的な喜びを見出す以前の眼で見ていた誰の記憶にもある共通の思いとして受け止められたのだと思う。

 

goonies

goonies

http://warnerbrosentertainment.tumblr.com

 

少年と少女7人のアドベンチャーストーリーは白地な悪役と、
明らかな目標「海賊の隠れた宝物」と少しのミステリーというわかりやすい構図で描かれ、
見ている少年の心にも考えるにも考えずに取り出すことが出来た。
同年代の子供たちが乗るのは空も飛ばないBMX、ポケットに入った石コロの様な小銭で買えるチョコレートバー、
それにたった今、自分が着ているものと違わないジーンズにパーカーという姿でスクリーンに登ることは、
自分の鏡像としてしか受け取れなかった。
今、思えばそれは模倣するファッションの初めての体感であったのだと思う。
そんな世界にこそ意味があったのである。
屋根裏部屋や秘密の宝の地図は、眼を瞑るだけで簡単に脳内変換できることであったし、
野良犬だらけの草むらへ勢いよく飛び込んだものである。
当然そこに金貨もトラップさえもあるわけはないのだけれど、
通り過ぎるバンや貨物船が一方的に悪役を押し付けられてくれた。
海賊の影は十分に視界に飛び込んできたのである。

 

goonies

goonies

http://www.bonappetit.com/entertaining-style/pop-culture/article/goonies-chunk

 

僕たちが成長して、日々を暮らしていく途上のプロセスで、
“教え”とされることが年上の目上の経験者によってもたらされることは、
映画の中だけのことではなくて、現実の生活でも同じである。
ただ、スクリーンの中で勇敢にあれという魔法の言葉は、
現実には堅実的・建前的である場合がほとんどのように感じられる。
賢い選択を薦めようという優しさがそこにあるという大前提付きであっても、
時にそれは少年の眼には退屈で窮屈で死ぬほど眠たいものでしかない。

 

僕たちの純情な偏屈さ加減はそうこうしている間に、鍛錬されてすっかりかたちをなくしてしまった。
子供心にもよく見えてはいたものの、どうしても納得できないまま今日まできた。
そうやって教えられた教訓は正直、よく役に立つ。
選択は確実であるし、あやふやな橋の上から足を踏み外すことも踏み抜くこともない。
それが教科書の教える内容なのだし、だからもちろん答えに間違いはない。
そんなことはよくわかっている。だが、はっきり言うと、だからこそこの崇高な“教え”を棄てたいと願っている。
間違っていない?だとしたら、どうしてこんなに眠くなるのか。
そして、これは今でもよくわからない。よくわからないのは、
考えるという自分の意思のプロセスをぶっ飛ばして到着するであろう結果が、どれほど重要なのかということである。
正にスタート前からよく見渡せるゴールに着地するという
確認作業のようなものくらいにしか受け取れないのではないだろうか。

 

正解を与えてくれるのであるから、多くの人はそんなところで立ち止まった者に馬鹿をくれるだろう。
それでも、“自分の体験”ではない経路で歩かされるという一点に焦点をあてて、
満足できていないということもまた善いことである。

答えを貰うための教科書に興味を持たないということは、
はじめる前から新しい体験を知見せんという社会的普遍なるセンスの放棄である。

 

Gooniesの冒険は金銀財宝という明確な目的地へ向かうことからはじめられた。
ストーリーの中でギャング一家に翻弄され、ほんとうに海賊に遭い、
宝の箱を目の当たりにした少年たちの姿を追いかけた僕たちの眼に映ったのは、
いつの間にか冒険そのものであり、自由精神と旅を求めた。
それなのにメインストリートの指差しがくっきりと示されることにひどく腹を立てていた。

 

goonies

http://warnerbrosentertainment.tumblr.com

 

誰かのために用意された正答は不安でしかない。
それを与えられて生きるということは、そのまま呼吸困難にしかつながらなかった。
右を見ても左を見ても、同じようにキレイな物事が並べられている。
多分、行動的になれないのは、成り行きの見据える先先まで
くっきりと見えてしまう“与えられた”社会だからなのかもしれない。

 

だから、教科書を棄てるのである。
自分にとって、まちがった正答なのかもしれない。
それでもなお自分の体験を新しく問うことによって、
本当のライフスタイルの善良さがうまれるのではないだろうか

そうしていないと息がつづかない

 

Gooniesとファッションの合言葉

NEVER SAY DIEを少年に

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