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川の流れのように
ひとりぽつんと佇む
つり人の言う世界

便利になった世の中に暮しながら、
便利すぎて本物の価値を見失いそうになる時、
シンプルでイージーなつりの世界へ還る。

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川の流れのように
ひとりぽつんと佇む
つり人の言う世界

便利になった世の中に暮しながら、
便利すぎて本物の価値を見失いそうになる時、
シンプルでイージーなつりの世界へ還る。

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哲学者ハイデッガー
『世界』をつる

僕たちは流れにまかせ過ぎていて、
自分の居場所さえわからなくなる。
つりをするハイデッガーの心。

『世界』。ドイツの生み出した偉大で奇矯なる哲学者ハイデッガーは、
人が生きる平素という日常の時に、人はそこにはいないのだと言う。
例えば、明日は必ず死ぬとわかりながら暮すとき…
それまでに見えていなかった世界が目の前に開かれることになるのかもしれない。

 

つまり、生きるという時間の覚悟を持たない僕たちにとって
本当の「世界」はまだこの先に在るのではないだろうか。

 

何年かぶりにつりの道具を手にする機会があった。
毎日学校帰りにひまつぶしの文庫本と竿を持って波打ち際に座っていた子供の頃、
どんなに背伸びをしても届かなかった外国製のロッドは
不思議なくらい落ち着いて手の中におさまっている。

渓流のない地域でつりを覚えた僕にとって、
ヤマメ・イワナ・アマゴ・マスといった魚種は、ある意味で憧れのつりだった。
今日、人跡の見えなくなるまで川を溯上して投げる一振りに、
僕は確かに生きて死ぬ日々の意味を感じている。

 

no fishing no life

no fishing no life

http://fly.hardyfishing.com/en-us/home/

 

つりは自然を相手に魚をつりあげるというとてもシンプルな目的のために、
あれこれと考えては実践し、その上で大抵はつれないという無為なゲームである。
魚をどうやって騙してつり上げるのか、渓相や天気、季節や時間から魚の様子を見た先に、
水面が割れる瞬間が訪れることをつり人は想像する。

 

no fishing no life

no fishing no life

http://fishinginstyle.tumblr.com

 

つり人はひどくイージーな思考にだけ集中して水の中の見えない魚を追い、
その時に適合ったしかけを選択して、イメージの通りに的確に糸を送り込む。
水の流れにのせて疑似餌を泳がせ、静かに誘い、余計な考えの入り込むすき間もないストロークで魚を得る。

 

僕はどうしても虹鱒が好きである。
透明な川の水の中に居ながら魚を追いかけている内に、
気がつけば川と共有する自然の只中に自分を見つめることができる。
そうして決まってその一瞬にレインボーの美しいシルエットが静寂を破ってくる。
そのためだけに僕は環境に負ける喜びを甘んじて受け入れられるのだと思う。

 

no fishing no life

no fishing no life

http://patagonia.tumblr.com

 

大人になったこの頃ではほとんどのことがよくわかっていて、
何か知らないことをやる羽目になったとしても、
本やインターネットで調べればすぐに熟達した知識を持つことができるようになる。
ところが、魚という自然の生の身を相手にするとそう簡単にはいかない。
本やインターネットで勉強してから出かけたとしても、当分はまったくつれないことだろう。

 

ひとつひとつが毎日条件のちがう自然の中では、
人の知識という高慢は渓相を乱す異物でしかなく、
でかでかと踏み込まれた川の水温にまったくなじまない。
けれど取扱説明書など存在しない想像の中の大いなる相手の前に立ちすくむ時、
だから面白いと感じることが出来る。

 

no fishing no life

no fishing no life

 

 

高度に進化した文化社会にはルールや決まりごとによって効率的で平等な日常生活が与えられている。
これが僕たちにとってかけがえのない日々のステージであって、
例え、誰かから何かを与えられる生活が気に入らないのだとしても変わることのない、交換不可能な世界である。
たった今、日常を暮していることは同時に隣りの誰かにとってのものでもあるのだ。
日々を暮すことと、それを共有することは切っても切れないつながりであり、
共有する僕たちの存在が豊かさを象徴する、その人人ひとりひとりが抱いたものだとするなら、
星の数よりもっともっと多くの価値観が存在することすら当たり前のことのように思えてくる。

 

つりというとても簡単なゲームにあっては、そうしたルールや決まりごとが平素よりもイージーなものになる。
もちろん、つりだけではない多くのアウトドアスポーツのそれぞれのシーンで
特有の対自然の極意のような閃きがあるのだろう。
それでも取り分けてつりが特別なのは、魚という自然に在るわかりやすい他者に相対して
その「生」から「死」に至るまでの極限的な簡素化が、
共有存在を極端な波紋で包んでくれるからなのかもしれない。

自然の中に一人置かれて、魚をつり上げるのか、つり上げないのかという、
シンプルなゴールだからこそ、自分という共有する世界の一部の意味を受け取りやすいのではないだろうか?

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